徒然日記

プラザ合意【25年9月23日 『逢坂誠二の徒然日記』8301回】

午前4時の都内、空全体に雲が広がっていますが、所々雲が切れています。気温は18度程度で、季節が変わった印象を受けます。日中は晴れ、最高気温は26度の予想です。
昨日は、今金、長万部、八雲、森を歩きました。今日は、今後は溜まった書類、資料を整理します。

1)プラザ合意
プラザ合意を振り返ってみたいと思います。

<プラザ合意とは>
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルにおいて、G5(日・米・独・仏・英)の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、当時の深刻な国際収支の不均衡を是正するために合意したのが「プラザ合意」です。
アメリカは巨額の経常赤字、日本などは巨額の経常黒字を抱え、国際経済全体の不安定要因となっていました。この状況を調整するため、協調してドル安・円高を進めることが決定されたのです。

<日本への衝撃>
合意前は1ドル=240円前後だった為替が、わずか1年余りで150円台にまで急速に円高が進行しました。
日本は原材料を輸入し、加工して製品を輸出する「加工貿易」で成長を遂げてきたため、この急激な円高は輸出産業に深刻な打撃を与えました。
本来ならば、段階的な為替調整や、国内産業を守るための周到な対策が求められたはずですが、日本政府はアメリカの要求をほぼ全面的に受け入れ、十分な戦略を持たないまま国の針路を大きく転換することとなりました。

<その後の展開>
円高不況を避けるため、日本政府と日銀は大規模な金融緩和や公共投資を拡大しました。その結果、土地や株式など資産価格が急騰し、いわゆる「バブル経済」が形成されます。
しかし、バブルの崩壊後、日本経済は長期停滞に陥り、現在に至るまで構造的な課題が尾を引いています。プラザ合意は単なる為替調整ではなく、その後の「失われた30年」の出発点にもなったと私は見ています。

<40年を振り返って>
プラザ合意は、戦後日本経済のあり方を根本から揺さぶった歴史的転換点でした。
 *「輸出立国」というモデルの限界を突きつけられた
 *アメリカとの力関係の中で、日本が主体的な戦略を欠いた
 *その後の金融・財政政策が「バブル経済」と「長期停滞」を生んだ

この合意から40年、日本経済の課題の多くは、プラザ合意の受け入れに端を発しているとも言えます。
今を生きる私たちにとっても、国際交渉でいかに主体性を持ち、持続可能な成長戦略を描くかという教訓を与え続けています。

【25年9月23日 その6604『逢坂誠二の徒然日記』8301回】
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