徒然日記
戦後80年の8月(逢坂誠二の徒然日記)
午前5時の都内、雲が多めです。朝の気温は26度程度で、昨朝までのような圧迫感のある暑さとは違い、少し和らいだ感じがあります。日中は晴れ時々曇り、予想最高気温は36度程度の見込みです。今日は連合北海道の皆さんの中央省庁要望への随行のため都内で仕事になります。
1)戦後80年の8月
2025年の夏、私たちは戦後80年という大きな節目を迎えています。
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。
同年8月9日、長崎にも原爆が落とされました。
そして8月15日、終戦を迎えました。
この時期になると、私自身の家族が経験した戦争の記憶が特に鮮明によみがえります。
1945年8月22日午前4時20分、留萌沖で引き揚げ船「小笠原丸」がソ連の潜水艦により魚雷攻撃を受け沈没しました。乗船していた私の伯母・逢坂ツネ(当時17歳)は海に沈み、そのまま帰らぬ人となりました。遺体は今も見つかっていません。
その同じ時期、同じ場所で、引き揚げ者が多数乗船していた「第二新興丸」、「泰東丸」も魚雷攻撃を受けています。第二新興丸は大破、泰東丸も沈没し、三船推定で1700名以上の方が死亡しています。
同じく8月下旬、戦闘が続いていた南樺太では、私の伯父家族も巻き込まれました。ソ連軍の機銃掃射により、伯母と2人の従兄弟が即死。伯父はその場にいながら、何もできなかったと聞いています。亡くなった家族の遺体がどうなったのか、定かではありませんが、樺太の地で慌ただしく埋葬されたのでしょう。
樺太では8月11日にソ連との間で地上戦が始まり、それが8月25日まで続きました。私の伯母たちが銃撃されたのも8月22日か23日と言われています。
この戦いで兵士700名〜2000名程度、民間人3500名から3700名程度が亡くなったとされていますが、詳細は分かっておりません。樺太では地上戦が続き、戦争が終わっていなかったのです。
樺太に住んでいた私の父が、戦後のいつ、どのようにして本土に引き揚げたのか、その話を私が聞くことはありませんでした。語りたくなかったのかもしれませんし、語れなかったのかもしれません。
私たちは、戦争の記憶を風化させることなく、次の世代へと語り継いでいかねばなりません。命の尊さ、日常のかけがえのなさ、そして戦争がもたらす深い悲しみと苦しみを、語り、記録し、共有し続けることが、平和を築く第一歩です。
戦いを根絶するためには、地道で切れ目のない、そして粘り強い取り組みが求められます。ただ「戦争がない」状態に満足するのではなく、理不尽な死や暴力が二度と繰り返されないよう、私たちは不断の努力を重ね、真に平和な世界を築いていかねばなりません。
戦後80年という節目の夏、改めて、平和への誓いを新たにしています。
【25年8月7日 その6557『逢坂誠二の徒然日記』8254回】
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