徒然日記
静かな戦後80年(逢坂誠二の徒然日記)
昨夕、一旦帰函し、最終便で再上京しました。今朝午前5時の都内は、空全体に雲が広がっていますが、雨は降っていません。朝の気温は16度程度です。日中も雲り、23度程度になる見込みです。今日も朝から夜まで、予定が密に詰まっています。
1)静かな戦後80年
1945年から、今年でちょうど80年という節目の年を迎えます。私自身の率直な感想として、この「戦後80年」という大きな区切りが、あまりにも静かに過ぎようとしているように感じられてなりません。報道各社の特集や識者の発信も、これまでの節目の年に比べて少なく、社会全体がこの出来事に対して沈黙しているかのような印象すらあります。
とりわけ、国権の最高機関である国会においても、この80年という重みを踏まえた議論や声明が、いささか控えめであるように思えてなりません。もちろん、それが私の杞憂に過ぎないのであれば、それに越したことはありません。しかし、戦争の記憶を風化させることは、過去の悲劇を再び招く危うさにもつながります。
私たちは、先の大戦の歴史と、そこから導き出された平和と民主主義の尊さを、今一度見つめ直すべきです。80年という歳月が流れようとも、私たちは決して「あの戦争」を忘却の彼方へと追いやってはなりません。
個人的なことですが、私の父は、昭和6年に樺太で生まれた、戦後のいわゆる引揚者です。
伯母の1人は、樺太から「小笠原丸」で帰国の途につきましたが、1945年8月22日、留萌沖でソ連の潜水艦に攻撃され 17歳で亡くなりました。さらに叔母の1人とその子、つまり私のいとこ2人は、終戦後の樺太でソ連戦闘機の機銃掃射に撃たれて亡くなりました。二人のおばは民間人であり、2人のいとこは10歳にも満たない子どもでした。
日本での終戦は8月15日との認識ですが、樺太では 8月25日頃まで、ソ連との間で戦闘が続いていました。いわゆる「樺太の戦い」です。当時の南樺太には日本の民間人が40万人以上が居住しておりました。
8月11日のソ連軍侵攻後、緊急疎開が行われ、10万人が島外避難に成功したようです。しかし8月25日までソ連軍の無差別攻撃が行われ、約2,000人の民間人が死亡したと言われていますが、明らかになっていない部分も多くあります。この樺太の戦いは、あまり知られておりませんが、終戦の日以降も戦いが続き、多くの人が命を落としています。
8月22日には伯母が乗船していた小笠原丸を含め緊急疎開船3隻がソ連軍に攻撃され約1,700名が死亡しています。
また千島列島の占守島(しゅむしゅとう)でも、8月18日から21日までソ連軍との間で戦闘が行われています。
終戦後も続いた北の戦いのことも語り継いで行かねばなりません。
この節目を、未来への責任を改めて確認する機会としなければなりません。
【25年5月29日 その6487『逢坂誠二の徒然日記』8184回】
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