徒然日記

本屋のない町で(逢坂誠二の徒然日記)

【25年5月2日 『逢坂誠二の徒然日記』8156回】
午前4時の函館、日の出はまだですが既に東の空が明るくなっています。空全体がごく薄い雲がありますが、晴れの雰囲気です。気温は7度程度。日中は晴れから曇り、夕方には雨になる予報です。最高気温は17度程度です。昨夜、一昨夜と、西の空に細い月が見え、何となく気持ちが落ち着きました。

1)本屋のない町で
私が生まれた町には、本屋がありませんでした。
本を買う手段といえば、学校のそばの文房具屋の店先に並べられた十数冊の雑誌か、縦型のスタンドに雑誌を挿してある薬局くらいのものでした。いずれも本業のかたわらに、ほんの少しだけ本を扱っているだけで、本屋と呼べるようなものではありません。欲しい雑誌があっても、必ずしも定期的に店頭に並ぶわけではなく、まるで守られない約束を待っているような気持ちでした。

本当の本屋に初めて行ったのは、父の実家がある青森でした。駅前の大きなビルの一階も二階も本で埋め尽くされ、その光景に圧倒されたのを覚えています。

町に本屋がなかったので、小学校では時折、書籍の斡旋のようなことが行われていました。年に二回ほど、推薦図書のリストが配られ、希望者が購入できる仕組みです。私は毎回そのリストを家に持ち帰るのですが、二、三日もすれば、たいていゴミ箱行きになっていました。

本の行商のような方が、家に訪ねてくることもありました。子ども向けの科学の図鑑や文学全集などを売っていたようですが、それを購入することはありませんでした。

私の家の裏には、国鉄の保線区に勤めているご主人の一家が住んでいました。夫婦と姉弟の四人家族で、弟さんは高校卒業後、隣町の本屋に就職しました。彼の営業成績を応援する意味もあったのでしょう、月に一度発行される子ども向け文学全集が、我が家にも届くようになりました。「欲しい本があれば何でも頼んで」と言ってくれたこともあり、年に数回、天文関係の本などを注文しました。あのとき憧れていた本が手に入った喜びは、今も忘れられません。

けれども、その弟さんはほどなくして転職し、文学全集は全巻そろうことなく、中途半端なまま配達が止まってしまいました。

中学生になると、年に数回は汽車に乗って隣町の本屋に行くこともありました。さらに、年に一度くらいは小樽の本屋にも足を延ばしました。もちろんたくさんの本を買えるわけではありませんが、本を眺めているだけで心が躍りました。

高校は隣町に進学しました。当時すでに蒸気機関車ではなかったものの、「汽車通」と呼ばれていました。登校時に使える汽車は一本だけ。下校時には午後四時台、六時台、九時台の三本があり、それぞれの間隔が長く、待ち時間が生じるのが常でした。

その空白の時間を埋めてくれたのが、裏の家の息子さんが勤めていた本屋でした。
小さな町の本屋で、それほど広いわけではありません。それでも、高校生の私は、毎日のようにそこで立ち読みをして過ごしました。本屋の側にしてみれば、一応は客とはいえ、万引きにも備えなければならず、複雑な思いだったのではないかと思います。

毎日通っていたおかげで、店内の本の配置はほぼ頭に入っていました。新しい雑誌が入荷すれば、すぐに分かります。それでも堂々と長居できるわけではなく、同じ背表紙を何度も何度も眺めていた日々が、今となってはとても懐かしく思い出されます。

本屋のない町で育ったことで、逆に本屋という場所への思いが強くなったのかもしれません。

【25年5月2日 その6460『逢坂誠二の徒然日記』8157回】
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