徒然日記
11月11日 その3052 『逢坂誠二の徒然日記』(4696)
昨日は、ブハラから7時間、列車にゆられ、
サマルカンド経由でタシケントに戻った。
7時間の移動は、
特急列車シャルク号だったが、
昔の鈍行的な雰囲気もあり、
とてもゆったりとした移動で、
長距離列車の旅を満喫した感じだ。
車窓には、乾いた草原や農村が広がっていた。
土地の施肥状態は良い感じはしない。
平らな土地だけにもっと堆肥などを投入すれば、
肥沃な土地になるのだろうと感ずる。
しかしこれらの地域で最も重要なのは水だという。
とにかく水が貴重であり、肥料以前に水さえあれば、
何とか作物は栽培可能・・・、そんな状態のようだ。
雨が多く、肥沃な土地を抱えた
日本の豊かさを感ずる。
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今日は、日本時間午前1時過ぎのフライトで、
タシケント空港から仁川空港に戻る。
空港に向かう前に、日本人墓地に立ち寄った。
第二次世界大戦後、
当時のソ連に抑留された日本人が
多数タシケントにも連行された。
その強制労働で建設したものの一つが、
後述するナヴォイ劇場だ。
ナヴォイ劇場の建設で亡くなった日本人は二人だが、
このタシケントの日本人墓地には、
それ以外の労働で没した日本人79人が眠っている。
日本人墓地では、
多くの御霊に対し、
手を合わせて哀悼の誠を捧げさせて頂いた。
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タシケントのナヴォイ劇場は、旧ソ連の指導のもと、
地元のウズベキスタンの皆さんや
捕虜となった日本人が建設したものだ。
収容観客数は1,400人と、
結構大きな劇場で、旧ソ連の4大劇場に入る。
ソ連の捕虜になった日本人は60万人とも言われ、
多くはシベリアなどの極寒の地で、
森林伐採、道路・鉄道建設に従事した。
その中で、この劇場の建設は、
特殊な任務だったものと思う。
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劇場完成後の1966年4月、
タシケントで大地震があった。
市内の建物78,000棟が倒壊したが、
ナヴォイ劇場は無事だった。
当時のタシケント市民は、
大地震でも崩れないナヴォイ劇場を目の当たりにして、
捕虜だった日本兵の真面目さと
技術の高さに驚嘆したようだ。
ナヴォイ劇場建設の顛末は、
ジャーナリストの嶌信彦さんが今年の夏に出版した
『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)
に詳しく記されている。
私も、今回の訪問前にこの本を読んだが、
ウズベキスタンの皆さんとの交流や、
ソ連兵との交渉によって抑留条件を改善させたことなど、
山崎豊子さんの『不毛地帯』などで知る
日本兵の悲惨すぎる抑留生活と違う側面も垣間見える
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今回は、短いウズベキスタン滞在だったが、
日本や欧米とは違った環境に身を置いて、
普段とは違った目線で物を考え日本を見ることのできる
非常に貴重な時間となった。
滞在中の一切の通訳と案内を引き受けてくれた
ウズベキスタンのSさんに心から感謝したい。
さあ今日も、確実に前進します。
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2015・11・11
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