徒然日記
小樽運河保存運動/逢坂誠二 #7627
小樽運河保存運動/逢坂誠二 #7627 【23年11月19日 その5930『逢坂誠二の徒然日記』#7627】 昨日は、札幌、函館、八雲、江差と回り、今日は青森で仕事のため、昨夜、青森入りしました。夜明け前の青森は、弱い雨、気温は低く5度程度です。日中は12度、雨時々晴れの予報です。
1)小樽運河保存運動 昨日、小樽運河の保存に関するテレビ番組を偶然、見ました。知っている方々も登場し、感慨深く、番組の途中からだったのですが、思わず引き込まれてしまいました。
私は、保存運動には直接関わってはおりません。しかし小樽運河を巡る論争は当時のあの地域の大きな課題で、知り合いを通して間接的にいくつかの縁があり、番組を通してその雰囲気が甦りました。
==以下、主にウィキペディアから==
1923年:運河完成。海岸の沖合い埋立て方式で造られた日本唯一の運河 (全長1,140 m、幅は臨港線沿いは20 m、北部は完成時の40m)
1966年:交通渋滞緩和のため臨港線全路線を6車線化する計画 1973年:「小樽運河を守る会」設立 1983年:「小樽運河百人委員会」結成、約10万人の署名を集め
当時の横路北海道知事が運河の幅の半分を埋立てて道路とし、残りはポケットパークの配置や散策路を整備する折衷案の支持を表明し、議論が決着。
1986年:現在の姿で完成
==以上、引用終了==
小樽運河の存在が、今の小樽観光の大きな目玉になっていることは誰しもが認めることだと思います。しかし50年前、そうしたことを見通すのは簡単なことではありませんでした。
運河を埋め立てて道路を拡幅すれば利便性が向上して地域がよくなると多くの方が考えていました。文化で飯は食えないなどの意見もあったようです。そんな中でも、色々な地域の先例にも学びながら、運河を残す運動を継続された皆さんに感服します。
先を見通して誤りのない判断をすることの需要さをつくづく感ずると同時に、先見性のある判断は多くの方にはできないものだとも思います。慧眼の士は少ないのです。
地域も国も、今だけ、自分だけ、金だけの視点では、行先を誤ってしまいます。
さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。 ===2023.11.19===
ネットによる個人献金はこちらです。 go2senkyo.com/seijika/123556
1)小樽運河保存運動 昨日、小樽運河の保存に関するテレビ番組を偶然、見ました。知っている方々も登場し、感慨深く、番組の途中からだったのですが、思わず引き込まれてしまいました。
私は、保存運動には直接関わってはおりません。しかし小樽運河を巡る論争は当時のあの地域の大きな課題で、知り合いを通して間接的にいくつかの縁があり、番組を通してその雰囲気が甦りました。
==以下、主にウィキペディアから==
1923年:運河完成。海岸の沖合い埋立て方式で造られた日本唯一の運河 (全長1,140 m、幅は臨港線沿いは20 m、北部は完成時の40m)
1966年:交通渋滞緩和のため臨港線全路線を6車線化する計画 1973年:「小樽運河を守る会」設立 1983年:「小樽運河百人委員会」結成、約10万人の署名を集め
当時の横路北海道知事が運河の幅の半分を埋立てて道路とし、残りはポケットパークの配置や散策路を整備する折衷案の支持を表明し、議論が決着。
1986年:現在の姿で完成
==以上、引用終了==
小樽運河の存在が、今の小樽観光の大きな目玉になっていることは誰しもが認めることだと思います。しかし50年前、そうしたことを見通すのは簡単なことではありませんでした。
運河を埋め立てて道路を拡幅すれば利便性が向上して地域がよくなると多くの方が考えていました。文化で飯は食えないなどの意見もあったようです。そんな中でも、色々な地域の先例にも学びながら、運河を残す運動を継続された皆さんに感服します。
先を見通して誤りのない判断をすることの需要さをつくづく感ずると同時に、先見性のある判断は多くの方にはできないものだとも思います。慧眼の士は少ないのです。
地域も国も、今だけ、自分だけ、金だけの視点では、行先を誤ってしまいます。
さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。 ===2023.11.19===
ネットによる個人献金はこちらです。 go2senkyo.com/seijika/123556
こんにちは。
小樽運河保存運動が始まる1973年に北大に入学し、
5月に初めて北海道を訪れる父親を小樽まで案内しました。
あの時、水面下では小樽運河埋め立て計画が現実化に向け
動きを速め、また保存運動が静かに、しかし力強く始まって
いたものと思います。
北国の早春、小樽運河は両側に家屋が迫り、黒っぽい深緑色に
澱んでいたと記憶します。駅から港まで歩く途中でチラリと
運河を目にした程度でしたが、後から思うと、あの運河の
保存に駆け回った人々の熱意と慧眼には敬服します。
確か、保存運動の中心人物は年配の女性だったと記憶します。
日本社会では、女性陣が一丸となって本気で動き、
加えて社会的影響力ある男性がその補助役に徹すると、
大きく山が動きます。
うらべ
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