徒然日記

円安から考える私権と公共 【26年8月15日 『逢坂誠二の徒然日記』8625回】

戦後、81回目の8月15日です。今日のこの日の呼び名が複数あります。
終戦の日、敗戦の日、戦没者を追悼し平和を祈念する日など。
日本社会が、あの戦争をどう総括し、何を教訓として次の世代に引き継ぐのかについて、今なお一つの共通認識を持つには至っていない、ということなのかもしれません。

1)円安から考える私権と公共
昨日の円安をテーマとする日記について、幾つかのご意見を頂きました。

note.com/ohsakaseiji/n/nb65e4e6d0184?sub_rt=share_pw

昨日の日記は、まず「円安とは何か」「誰が恩恵を受け、誰に負担が生じるのか」を分かりやすく整理することを主眼としました。そのため、私自身が現在の円安をどう評価し、どのような対策が必要だと考えているのかについては、十分には書いてはおりません。

私は、円安には輸出やインバウンドなどにプラスの面があるとしても、現在のように賃金の伸びが物価上昇に十分追いつかず、多くの皆さんの暮らしが圧迫されている状況を看過することはできないと考えています。
為替相場を政策によって望ましい水準に固定することはできません。だからこそ、物価高への当面の対策に加え、賃金が継続的に上がる経済をつくること、国内投資を増やすこと、生産性や産業競争力を高めること、さらにエネルギーや食料などの海外依存による影響をできるだけ小さくすることなど、中長期の取り組みが必要です。

また、外国資本による土地・不動産取得についても重要な論点です。
外国人や外国資本による取得そのものを一律に否定すべきものではありません。しかし、安全保障上重要な土地、水源地、農地、あるいは地域社会への影響が大きい地域などについて、現在の制度のままで十分なのか。取得実態の把握や情報公開も含めて検討する必要があります。
各国がどのような規制を行っているのかについても、改めて整理した上で、私自身の考えをさらに深めたいと思います。

そして、この問題を考えていると、外国人による土地取得だけではなく、もっと大きな問題に行き着きます。
それは、日本人、外国人を問わず、土地や自然、その他の有限な資源と私権との関係、さらに個人の権利と公共の利益との関係を、これからどう考えていくのかという問題です。
日本では、憲法上の自由や財産権をはじめ、個人の権利が保障されています。これは民主主義社会の大切な基盤であり、当然、最大限尊重されなければなりません。

一方で、土地、水、森林、農地、エネルギーなど、私たちが利用できる資源には限りがあります。地域の環境や景観、生活環境も無限ではありません。
また、限りがあるのは自然や土地だけではありません。人口減少や人手不足が進む中で、医療や福祉など、国民の暮らしを支えるサービスをどう維持し、限られた人材や財源を地域の実情に応じてどう確保していくのかも重要な課題です。

個人の自由や財産権、職業選択の自由を尊重しながら、こうした有限な資源や社会を支える基盤を、社会全体としてどのように守り、次の世代に引き継ぎ、適切に利用していくのか。
これは「私権を制限すればよい」という単純な話ではありません。
しかし、すべてを個人の自由や市場原理だけに委ねればよいという時代でもないと、私は感じています。

土地利用や景観については、地方自治体や地域住民が果たす役割も重要です。
自分たちの地域を将来どのような姿にしたいのか。その意思を、土地利用やまちづくりのルールにどこまで反映できるのか。これは地方自治、住民自治の問題でもあります。
個人の自由を大切にしながら、公共の利益や将来世代との調和をどう図るのか。
日本の人口が減少し、世界との人や資本の行き来がますます活発になる中で、こうした問題について、本格的に議論しなければならない時期に来ているのではないでしょうか。
多くの皆さんからの問題提起に感謝します。

さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。
【26年8月15日 その6928『逢坂誠二の徒然日記』8625回】

#逢坂誠二 #歩く歩く聞く聞く
#函館

  
  

皆様のコメントを受け付けております。

  1. 昨日私が申し上げた点にも触れて下さりありがとうございます。
    私は外国人、外資のみの問題であるかのように書いたものの、確かに外国人だけの問題ではなく、多くの点は日本人にもあてはまる話であり、視野が狭かったと省みております。

    ただ、限られた資源(環境や人材、財政等も広く含めて)を維持、確保、次世代へ継承していくためにはある程度の制約は仕方ない、強い言葉を使えば当然ではないでしょうか。だから経済的自由は様々な人権の中では憲法上も制約が許容されているわけですし、土地は公共性が高く、変容後に元に戻すことは非常に難しいことからも必要性は高い
    と思います。

    過疎地での医師不足などは人口減少や人手不足とは無関係の、総量(医師全体の数)と配分の問題でしょう。
    おそらく多くの医師にとっては過疎地で働く誘因はほとんどなく、職業選択の自由を重視してきた結果制約されたのは過疎地の人々の医療アクセスと、延いては健康です。国民皆保険制度というものは医療提供の保障も含む制度であるはずで、そのためにはある程度の自由制限もやむを得ないところにきているのではないでしょうか。

記事に投稿

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です