徒然日記

沖縄戦と北海道(逢坂誠二の徒然日記)

【25年6月24日 『逢坂誠二の徒然日記』8210回】
昨夕、沖縄から東京入りしました。午前4時の都内、雲が多めですが雨の雰囲気はありません。気温25度。日中も曇りで30度になる見込みです。

1)沖縄戦と北海道
昨日、沖縄県糸満市で行われた「戦後80年 沖縄全戦没者追悼式」に参列しました。今年は、石破総理をはじめ、衆議院議長・参議院議長・最高裁判所長官といういわゆる三権の長が全員そろって出席する、30年ぶりの式典となりました。私も、追悼の意を込めて献花をさせていただきました。

式典に先立ち、沖縄戦および南方地域における北海道出身戦没者を祀る「北霊碑」にも献花いたしました。この碑には、沖縄戦で命を落とした10,850名、南方諸地域で戦没した約30,000名、あわせて約4万人の北海道出身者が祀られています。

沖縄戦において、北海道出身の戦死者は全国でも際立って多く、福岡県の4,030人を大きく上回る約10,850人にのぼります。都道府県別で最多級の規模です。この背景には、日本陸軍の兵力配置制度と戦局の悪化に伴う動員の実態があります。

当時の日本陸軍は、徴兵された兵士を出身地に応じて師団に配属する「補充管区」制度を採用しており、北海道全域は旭川の第7師団(旭川師団)が担当していました。しかし、戦局の悪化により各地で兵力不足が深刻化し、北海道出身者は第7師団に限らず、他地域の部隊、特に沖縄へ投入された第24師団などにも多数補充されました。

第24師団はもともと中国戦線に展開していた部隊ですが、1944年に本土決戦の最前線と位置づけられた沖縄に急きょ配備されました。この師団には北海道出身者が多く含まれており、沖縄本島中・北部で激しい戦闘に従事しました。特に1945年4月、米軍に奪われた北・中飛行場の奪還を命じられ、準備不足のまま無理な作戦が強行され、多くの命が失われました。こうした事情により、第24師団を中心とする北海道出身兵士の犠牲が突出することになったのです。

沖縄戦に限らず、太平洋戦争全体を通しても、北海道出身の戦死者は全国的に多い傾向にあります。

北海道出身兵士の戦死者数が多いのは、いくつかの要因が重なった結果です。まず、北海道の若者は体力・健康面で優れているとされ、精鋭部隊に多く配属されました。第5師団や第7師団など、常設の有力師団が北海道にあり、これらの部隊は戦局悪化に伴い、南方戦線や沖縄など過酷な激戦地に投入されました。また、地域別徴兵制のもと、北海道の兵士は北海道の部隊に所属し、その部隊ごと戦地に送られたため、地域単位での犠牲が大きくなりました。こうした背景から、戦死数 戦死率が全国平均より高くなったようですが、この点、もう少し調べてみます。

このように、沖縄戦、さらには太平洋戦争全体において、北海道出身者は極めて多くの命を戦争によって失いました。それは徴兵制度や戦争遂行体制の中に組み込まれた構造的な問題であり、地域的背景とも深く関係しています。糸満市の「北霊碑」に祀られた約4万人の御霊は、そうした重い歴史を今に伝えています。

国会議員として、この歴史の重みを深く胸に刻み、二度と戦争を起こさないという強い決意を持って、平和と民主主義、立憲主義を守り抜く責任があります。戦争の悲劇を繰り返さぬよう、今を生きる政治の力が問われています。
【25年6月24日 その6513『逢坂誠二の徒然日記』8210回】

ohsaka.jp/support.html
go2senkyo.com/donate/agree/123556
#逢坂誠二 #おおさか誠二 #立憲民主党 #立憲 #立民 #政治家 #国会議員 #衆議院議員 #函館 #五稜郭 #慰霊の日 #沖縄戦 #戦死者 #北海道

  
  

皆様のコメントを受け付けております。

記事に投稿

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です