徒然日記

湯布院と私 【26年8月5日 『逢坂誠二の徒然日記』8615回】

霞ヶ関の各省庁で幹部人事が発表され、これまでお世話になった多くの皆さんから、ご異動やご就任のご挨拶をいただいています。
この20年近くご一緒した方々から、今も気にかけていただけることは本当にありがたく、心から感謝しています。
それぞれ新たな立場で、日本のために力を尽くされることを願うとともに、私自身も立場は変わっても、より良い国づくりに向けて努力を続けてまいります。

1)湯布院と私
ニセコ町長時代、私は湯布院の皆さんに本当にお世話になりました。特に印象深いのは、湯布院観光協会とニセコ町役場との間で、職員を1年間交換派遣したことです。互いの地域づくりを現場で学び合う貴重な取り組みであり、その後も多くの意見交換を重ねました。私自身も折に触れて湯布院を訪ね、多くのことを学ばせていただきました。

私が初めて湯布院を意識したのは、高校生の頃です。当時始まった「牛喰い絶叫大会」や「湯布院映画祭」が大きな話題となり、「こんな面白い地域づくりがあるのか」と強く印象に残りました。
1983年にニセコ町役場に就職した際、その二つのイベントのことを上司に話したことがあります。しかし、当時はあまり関心を持ってもらえず、とても残念に感じたことを今でも覚えています。
その後、東京大学の大森彌先生から「地域づくりを学ぶなら湯布院だ」と教えていただいたことをきっかけに、私は本格的に湯布院に注目するようになりました。そして、筑紫哲也さんとご縁をいただいてからは、湯布院の歩みや考え方に、より深い関心を持つようになりました。

私の心を最も揺さぶられたのは、1970年代に起きた、外部資本によるゴルフ場や大型リゾート開発への反対運動です。当時の湯布院は、今ほど多くの観光客が訪れる地域ではなく、「別府がうらやましい寒村だった」と語られることもありました。そのような状況で大型開発計画が持ち上がれば、歓迎されても不思議ではありません。しかし、湯布院の人々はその道を選びませんでした。

私は、この決断こそが、その後の湯布院の地域づくりの原点になったのだと理解しています。単に観光客が増えればよいという発想ではなく、「自分たちはどんな地域でありたいのか」という問いを大切にし、その答えに基づいて地域づくりを進めてきたのです。
湯布院で学んだことは、その後の私の地域づくりや政治活動に大きな影響を与えました。地域の魅力は、外から与えられるものではありません。地域に暮らす人々が、自ら考え、語り合い、挑戦を積み重ねることで育まれていく――そのことを私は湯布院から教えていただきました。

今回、20数年ぶりに湯布院を訪れ、懐かしい皆さんにお会いし、ご挨拶することができました。特に、職員交流が始まった当時、湯布院観光協会長を務めておられた中谷健太郎さんと約40分にわたりお話しできたことは、本当にうれしい時間でした。また、夜遅くまで、玉の湯の桑野和泉社長やニセコ町に派遣されていた井尾淳さんをはじめ皆さんと地域づくりについて語り合えたことも、今の私にとって大きな励みとなりました。

今回の湯布院訪問を通じて、私は改めて、多くの方々とのご縁に支えられて今日まで歩んでこられたことを実感しました。その感謝の気持ちを胸に、これからも地域の力を信じ、地域の皆さんとともに歩み続けたいと思っています。

さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。
【26年8月5日 その6918『逢坂誠二の徒然日記』8615回】

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