徒然日記

23年3月14日 その5680『逢坂誠二の徒然日記』(7377)

夜明け前の都内、気温は8度程度です。空全体に薄雲が広がり星も月も見えません。日中は晴れ、15度程度の見込みです。

1 )金田誠一さん

金田誠一さんと初めてお会いしたのは2005年です。当時、金田さんは既に衆院当選4回。私には雲の上の人です。初対面は、物静かな方だなぁという印象でした。しかし党の厚生労働関係の会合で、自分の考えを理路整然としかも力強く話される姿を見て、物静かという印象とはちょっと違い、情熱の人だと感ずるようになりました。初の出会いから半年も経たない 2006年1月に脳梗塞を発症。リハビリを経て国会活動に復帰したのですが、最終的には、選挙活動ができないと判断されて2007年10月に、5期の任期終了をもって引退することを表明。それ以降、療養されておられましたが、去る3月10日、脳幹出血のためご逝去されました。 75歳でした。

2007年秋に引退表明をされた直後、金田さんの後援会長をはじめ8区の皆さんから、金田さんの後を引き継いで、私に8区で活動するように要請がありました。当初、私は、もともと8区が選挙区だった鉢呂吉雄さんが、金田さんのバトンを引き継ぐのが適任と考えていました。しかし鉢呂さんなどとの色々なやり取りの結果、私が8区で活動することを決断し、今に至っています。函館に来てからはや 16年が経ちましたが、こんないきさつですから私と金田さんの縁は深く色々な思い出があります。

金田さんは、私よりひと回り上の亥年です。名前は「誠一」と「誠二」。2009年には、「誠一から誠二へ」、そんなことを言いながら総選挙を戦いました。

2005年秋、金田さんの政経セミナーにお邪魔したことがありました。講師は、当時、慶應大学にいた金子勝先生です。金子先生はその年の春、『2050 年のわたしから』を出版。ヤマザキマリさんのイラスト入りの将来予測本です。高齢化、少子化、地域の衰退などをテーマに、ちょっとラフな見込みでしたが、なかなか興味深い内容。そこで折角の機会なので、金子先生の話を聞きたいこともあっての函館入りでした。

ところが金子先生の乗った飛行機が雷雨のため函館空港に着陸できず、講師不在のセミナーで残念と思ったところ、急遽、ピンチヒッターで私が講師をする羽目になったのです。金子先生の本の内容も踏まえつつ、綱渡りの講演となりましたが、金田さんに喜んで頂けたのが救いでした。その講演から2年後、私が 8区に来ることになるとは思いもよりませんでした。

私は、カラオケは不得意ですが、金田さんはいつも「北国の春」を歌っていました。あの歌詞と金田さんの朴訥な人柄や函館訛りが妙にマッチしていました。

金田さんの初当選は1993年です。その4年後、臓器移植法の審議に際し、「脳死を人の死としない」金田案を国会に提出しています。初当選からたった 4年後に、このような重要法案を提出できたのです。この事実が、金田さんの実力を証明しています。お元気でしたら、厚生労働大臣を担っていたと確信しています。

昨日は、急遽、帰函し、安らからに眠っている金田さんに、最後のお別れをして参りました。金田さんの分も含め、私もさらに頑張らねばなりません。ご冥福を改めてお祈りします。

今朝は8時から、都内のホテルで私の朝食勉強会です。そのため今日はいつもよりも、ちょっとだけ早起きしています。
さあ今日も ブレずに曲げずに、確実に前進します。
===2023.3.14===
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