徒然日記
5月8日 その2450『逢坂誠二の徒然日記』
昨夜、細川・小泉両元総理が中心になって
設立した
一般社団法人「自然エネルギー推進会」の設立総会に出席した。
原子力を巡っては、色々な考え方がある。
推進であれ、脱原発であれ、
原発に関してある考えを主張することは、
宗教的などと揶揄される場面もある。
推進の場合、原子力の安全性や使用済み核燃料処理、
さらにはプルトニウムの武器転用などに対して、
明確な根拠をもって推進を説明できないからだろう。
脱原発の場合も同様だ。
脱原発を唱えてはいても
エネルギーに対する明確な代替案を必ずしも出せていない。
それにも拘わらず
原発を止めることを主張するのは無責任だということだろう。
いずれも明確なことが言えないのに、
推進やゼロを盲目的に主張している。
こうした点が宗教的などと
揶揄されることに繋がっているのだと思う。
私は、こうしたことを理解しつつも
原子力ゼロ社会の構築に向けて、
私の残りの人生をかけたい。
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推進にも原子力ゼロにも不透明な部分があるにせよ、
判断基準を何にするかを誤ってはいけない。
それは人の命であり、将来への責任だ。
原子力を推進すれば、電力がふんだんにあって、
経済も暮らしも、一見安泰なように見える。
しかし万が一の事故の際には何が起こるか、
そのことを私たちは3.11で、
嫌と言うほど思い知らされているのではないか。
(いや、本当の恐怖は、これからかもしれない。)
加えて将来への責任だ。
正常に使用を終えた原子炉を廃炉にするために
40年もの年月がかかると言われる。
その際に発生する高濃度汚染廃棄物の処理方法は決まっていない。
使用済み核燃料の処理方法も決まっておらず、
その処理には数万年単位の時間を要する。
決まっていないのは方法や時間だけではなく、
そのコストも未定だ。
今に暮らす私たちは、
そのツケを将来に先送りして、
電力の恩恵を受けている。
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脱原発や原発ゼロを唱えるからには、
将来への明確な道のりを示せという。
その道のり、代替案を示さずに
脱原発を唱えるのは無責任だという。
一見、この指摘も正しそうに思われるが、
人の命と将来への責任を欠いた原発推進、
どちらが無責任なのだろうか。
今、私たちが暮らす社会は、
あらゆる分野が原子力の推進を前提とし、
原子力を支える仕組みになっている。
エネルギー分野も、財政も金融も、
さらには自治体への政策も、
あらゆる社会の仕組みが原発推進を前提にしているのだ。
こんな社会の中で、
原発ゼロへの道のりを明示するのは容易なことではない。
原発ゼロの道のりは、
原発ゼロを目指して、
あらゆる社会の仕組みを見直すという決断があってこそ、
ゴールに至る道のりが見えてくる。
ゼロを目指す決断が極めて大事なのだ。
原子力を推進しつつ、脱原発を進めることは、
アクセルとブレーキを同時に踏むこと以上におかしなことだ。
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さあ歩いてみろ、旅行に行ってみろと声高に叱咤される。
ところが手かせ足かせがあって、
満足に歩けず、旅行の日程を組み立てることは難しい。
現実に歩けもしないのに、
旅行に行くというのは、全くけしからんことだと再度叱咤される。
今の社会の仕組みを前提にして、
原子力ゼロの道筋を明示できないことに対する批判は、
こんなイメージに写る。
大事なのは、旅行に行くことを決め、手かせ足かせを外すことだ。
ただし長年、手足に付けられた手かせ足かせは、
錆びて簡単には外れない。
しかし、外す努力を開始することが肝心だ。
長年、手も足も使っていなかった。
だから筋力は完全に衰えている。
筋力トレーニングや歩く、走る訓練をしつつ、
旅をする準備を開始することだ。
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そんなのは非現実的だ。
脱原発によって経済活動も、
市民生活も停滞するとの指摘もあろう。
しかしだ、国民の命を守れないかもしれない、
将来の国民に大きな負担を先送りする、
こんな状況の中での経済や生活の安心は欺瞞だろう。
国民の安全をより確かなものとし、
将来への負担を軽減する、
これが節度ある国民が選択する道だろう。
そのことによって、経済が停滞するとの声があるが、
本来持てるはずのないふんだんな電力を前提にして、
刹那的な快楽を享受しているだけなのが今の経済ではないのか。
人間の力でコントロールでき、
将来にも責任を持てる電力、
その枠の範囲で、我々がどう暮らすのか、
それを考えるのが、当然の発想ではないのか。
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鉄道などの乗り物は、スピードをいかに上げるかの競争だった。
明治5年に日本で初めて開通した鉄道の速度は30キロメートルあまりだった。
それが今や新幹線の速度は320キロに達する。
しかしこれは、いかに安全に停止できるかの技術が伴っての最高速度だ。
速度を上げる開発は、その速度でいかに安全に停止できるのか、
その技術の裏付けがあって初めて可能となる。
原子力発電所は、ブレーキのない高速列車なのだと思う。
私は、こんな列車に、国民を乗せることはできない。
速度は落ちるかもしれないが、
安全に止まれる列車に乗ろうと
国民を説得することが政治の役割だと私は確信している。
これまでの私たちは、
今、私たちが乗っている電車のブレーキについては
あまり説明を受けてこなかった。
ブレーキの能力以上に速度の出る電車の乗せられていたのだ。
しかし、3.11で、そのブレーキが機能していないことが白日のものとなっ
た。
それなのに、国民の皆さんを、
引き続きブレーキのない列車に乗せることは無責任だ。
仮に以前の速度に憧れる国民がいたとしても、
そこを説得する、それが政治の判断だろう。
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昨夜、細川元総理は、
今の政府が、3.11の反省も教訓もなしに、
原発を推進することを批判した。
細川、小泉両氏の取り組みを
冷やかに見ている方々も少なくないようだが、
私は、両氏の取り組みを明確に支持したいと思う。
今日も、しっかりと前進します。
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2014・5・8
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こんにちは。
釈迦に説法ですが、原子力発電、そして原子力兵器は以下の4つの切口から、
その非を示すことが出来るように思います。
① 技術 : 日本国土のみならず、大地震、火山噴火などの人類が抵抗のしようにない
災害に遭遇した時、技術的な防御策は無力である。特に、日本の場合は、
1Fの検証を待ちたいですが、地震による揺れに対して、経済性の成り立つ
限度を超えた設備である必要性(②に関係します)があると考えられる。
② 経済 : 事故時の保険・事故処理、廃棄物処理(①とも密接に関係します)、立地時
からの地元への便宜供与などなど、言わずもがなですね。まともに検討すれば、
本質的に経済的に成り立ちませんよね。
③ 社会秩序 : 核の場合が顕著ですが、核燃料と発電施設(特に廃棄物管理)には、
独占的権力による強権的管理を行う必要があり、中央集権の強化と
独善的官僚機構の野放図な跋扈を前提とした、「秩序ある」社会が
強要されます。およそ、人々の幸福につながるとは考えられません。
④ 倫理 : これまた、いまさらいうことでもなくて、ドイツの核発電所廃止に関する倫理委員会
の議論と結論を見れば、自明的に了解されることですね。
加えて、日本の場合、3.11以前のエネ庁のデータによれば、社会全体の総使用エネルギに
占め電気エネルギーの割合は11%程度、内、原発の発電量は20数%、つまり、日本の全エネルギ
に占める原子力発電の発電エネルギは高々、3%です。代替云々するほどのことでしょうか?
第一、今はすべて止まっているはずですよね。何の問題もありません。アホノミックスで
円安になり、その結果、輸入量はそれほど増えていない化石燃料の総支払額が増えて、
経済に影を落としているくらいでしょう。
冷静になって考えれば、道はいくらでもあるでしょう。
でも、どの社会でも似たものかもしれませんが、特に日本社会に決定的にかけているように見受けられる
「哲学的」であるともに「論理的」なものの考え方の不在が、あるいはこの先、日本社会に致命的な悪影響
を及ぼすかもしれません。
脱原発論議はその試金石となるでしょう。 〆