徒然日記
18年7月6日 その3969『逢坂誠二の徒然日記』(5666)
渡島桧山管内でも、
道央道八雲国縫間の土砂崩れなど
豪雨被害が発生している。
昨日は、その対策等について、
地元と連絡を取り合って対応に当たった。
今後、被害にどう対応するか、
各自治体や関係機関とも
調整することとなる。
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今朝の都内も雨だ。
梅雨が明けてからの方が
雨が多い印象だ。
1)記憶の限り論法
昨日、不思議な話を耳にした。
「記憶の限りでは、そのような事実はありません」
昨今の国会では、「記憶の限り」
と前置きをして答弁する場面が多い。
この答弁の真意は一体何なのか。
実はこの答弁は、
虚偽答弁と密接不可分だというのだ。
「記憶の限り、そのような事実はありません」と答弁し、
仮に「記憶以外の事実が存在していた」としても、
それは虚偽答弁ではないというのだ。
記憶以外の、そのような事実は
答弁者本人の記憶から抜けているため、
これは虚偽、嘘の答弁ではないとの理屈だという。
「えっ」と驚くべき理屈だが、
こんなことは霞ヶ関の常識らしい。
仮に故意に記憶から
その事実を消したとしても、
消したことが故意であるかどうかを
証明できる人は本人しかいない。
どんなに答弁者を問い詰めても、
故意であるかどうかを
他者が証明するのは極めて難しい。
後になって、
答弁者がないと言った事実が判明しても、
私の記憶の限りではなかったので、
虚偽ではないと言い繕うのだという。
何とも酷い話だ。
故意に行う虚偽の議論を詭弁というが、
記憶の限り論法は詭弁というべものだろう。
こんなことがまかり通るなら
国会議論が成り立たないばかりか、
人々の会話そのものの前提が崩壊してしまう。
私たちの会話の多くは、
記憶に基づいて取り交わされる。
記憶がなければ、その瞬間の暑いとか痛いなど、
極少数の言葉しか発することはできず、
会話は成り立たない可能性が高い。
会話は、
それぞれが記憶を呼び覚まして
やり取りすることが暗黙の前提だ。
その記憶に意図的に限定をつけることが、
虚偽というべきものだろう。
嘘を言ったとしても
記憶の限りと前置きすれば
直ちに嘘にならないという論理は酷い。
霞ヶ関、永田町での記憶の限り答弁が、
広がるようなことがあれば、
国家崩壊の危機とも言える。
さあ今日もぶれずに曲げずに、
確実に前進します。
==2018.7.6==
皆様のコメントを受け付けております。
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今日も法の上での平等が守られていない怖さを感じました。麻原死刑囚はコミュニケーションがとれない状態だったようで家族が精神鑑定を求めていたのに応じてもらえなかったそうです。犯罪行為は憎むべきものです。しかし法治国家であるならば憲法によって裁かれなければならず、権力者の都合で死刑を利用するのは間違っていると思います。安倍政権の元では命の扱い方が軽すぎて眩暈がします。
また、前日、安倍首相と閣僚たちが宴会をして楽しそうな写真がツイートで流されてきました。心がない人たちによって日本の政治が腐っていくのが悲しいです。
逢坂先生は今日、無事に函館に戻られたようで、お祭りにも参加されてよかったですね。
お天気もいいようでうらやましいです。こちらは豪雨時々小康状態の繰り返しで、油断ができない状況です。
それではおやすみなさいませ。
浩太郎です。失礼致します。
>記憶の限り論法は詭弁というべものだろう。
>国会議論が成り立たないばかりか、
人々の会話そのものの前提が崩壊してしまう。
なら、前提そのものを変えるしかでは無いのでは?国会の答弁のあり方を、これを機に見直す。国会制度改革。その中で大いに議論をしたら良いかと思います。議員のあり方も含めて、国会ではかくあるべき等。
答弁の虚偽、云々ついてですが、これ、いくら追及しようとも、人間、自分が不利になる発言はしないものですよね。どんなに正論を述べたとしても。従って、この観点からの質疑は不毛ですし、労力の無駄と思います。
また、道徳上、どんなに許されない事であったとしも、その人個人としての思想・判断基準(信条)は、現行憲法上、認められており、それを他人がどうこう言ったところで、おいそれとは変わりません。