徒然日記

12月28日 その3779『逢坂誠二の徒 然日記』(5476)

函館の朝の気温は氷点下8度程度。

今日は日中も氷点下の真冬日となる。

昨日も重要な打ち合わせなどがあり、
東京日帰りとなった。

しかも行きも帰りも、
悪天候のため飛行機が飛ぶのかどうか、
ギリギリの条件の中だったが、
遅延はあったものの
何とか予定をこなすことができた。

1)原子力の平和利用

1945年夏、広島と長崎に原子力爆弾が投下された。

これ以降、現在まで日本以外の国に原子力爆弾が投下された例はない。

日本が原子力爆弾投下による世界で唯一の被曝国になった。

1945年の敗戦後、連合国から日本の原子力研究が全面的に禁止されるが、
7年後の1952年にサンフランシスコ講和条約の発効で日本の原子力研究が解禁される。
それ以降の動きは次だ。
1953年アメリカのアイゼンハワー大統領が、国連総会で、平和のための原子力に関する演説
1954年原子力研究開発予算が国会に提出(予算2億3500万円はウラン235にちなんだもの)
1955年原子力基本法成立(「民主・自主・公開」の「原子力三原則」が盛り込まれる)
1956年原子力委員会設置(初代委員長は、読売新聞社の正力松太郎社主) 
1957年正力氏が、原子力平和利用懇談会を立ち上げると同時に、科学技術庁の初代長官に就任。
9電力会社などの出資により日本原子力発電株式会社が設立される
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原子力研究が解禁されてからわずか5年、正力氏などの大きな影響力で日本の原子力利用の推進体制が整備される。

世界唯一の被爆国である日本は、原子力の平和利用の美名のもと、積極的に原子力利用を推進する国に転換したが、この背景にはCIAの関与があったとされている。

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1963年東海村で日本初の原子力発電に成功
(その日にちなんで10月26日が「原子力の日」とされた)
1966年日本初の商用原子炉の運転開始
1974年原子力三法成立(原発をつくるごとに交付金を支出する仕組みができる)
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1966年の日本初の商用原子炉の稼働以降、2009年の泊原発3号機の稼働まで50基以上の商用原子炉が稼働された。

その結果、ウラン47トンと
使用済核燃料18,000トンを抱え込むことになった。

そして2011年3月、東日本大震災が発生する。

またこの流れとは別に、
日本では核燃料サイクルにも取り組んでいる。

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現在、こうした日本の原発への取り組みを
改めて検証しているが、
使用済核燃料やウランに対して、
確実に処理できる裏付けもないままに
進んできたのだと思う。

日本の原子力政策の大転換は必須の状況だ。

今日もブレずに曲げずに、   
確実に前進します。
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   2017.12.28=======

  
  

皆様のコメントを受け付けております。

  1. 原子力ゼロの前文で原子力爆弾による被曝から記されていることは大事なことだと思いました。歴史の流れを踏まえてつながる未来でないと片手落ちになると思うからです。
    歴史を歪める政権に真っ当な未来が描けるはずがありません。

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