徒然日記

9月2日 その3662『逢坂誠二の徒然日記』(5359 )

昨日、我が党の代表選挙の結果、
新代表に前原誠司さんが就任した。

2005年以来、
12年ぶりの再登板となる。

前回はメール問題によって
短期間で辞任する結果となった。

日本に健全な二大政党が定着できるよう
再登板では、是非、頑張って頂きたいと思う。

私と考え方に違いがあるのは事実だが、
私なりに前原新代表を
しっかりと支えたいと思う。

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この12年間を振り返ってみると、
随分と色々なことがあった。

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2005年〜2009年:
岡田、前原、小沢、鳩山代表のもとで、
郵政解散、メール問題、
小沢問題など様々な揺さぶりがあったが、
政権交代に向けた機運が高まった時期だ。

忘れている方も多いと思うが、
こんな時期の2007年11月、
当時の小沢代表が自民党との大連立を表明した。

党内の誰にも相談せず、
福田総理とだけ相談して表明したようで、
これは実現しなかった。

私は、この大連立の発想に関し、
その後の民主党政権のことを思うと、
今でも意味深く考えることがある。

また西松建設、陸山会、
その後の政治資金規正法問題など一連の小沢問題とは
一体何だったのだろうかと感じている。

政権交代機運の高まりと同時に発覚し、
政権消滅と同時にフェイドアウトした印象だ。

政権に対する激しい揺さぶりだったとの印象を持つ。

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2009年〜2012年:
悲願の政権交代が実現したが、
政権交代当初から、私には危機感があった。

政権交代の準備期間が短か過ぎることだ。

政権交代が頻繁に行われているなら、
そんな心配は不要だ。

大半の者たちが政権や政府に対する土地勘がない。

そんな中、
政権移行の引き継ぎもないままに
新政権がスタートした。

日本レストランの営業終了後の深夜、経営陣が総交代し、
一晩で和洋折衷レストランとして準備を整え、
翌朝から営業を開始するようなものだと感じていた。

だからこそ、新装開店に当たっては、
細心の注意が必要だった。

もちろん多くの者たちは、そのことを知っていた。

だからこそ各人がフル回転で仕事をした。

しかしこれが間違いの一つだったと思う。

各省が最大の力を発揮することで、
政権最大の効果となるわけではない。

各省、各人の塩梅を調整することが必須だった。

だがそこに目配りをできる人材は少数だった。

国民から政権交代に対する大きな期待があり、
それに応えるためには、出力調整よりも
フル回転に傾斜することも理解できるが、
もっと冷静になるべきだったと思う。

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一例だが、
政権の重要政策の一つだった地域主権改革は、
どのような体制で、どう執行するのか、
それすらも決まっていなかった。

そんな中、政権内にいない私に白羽の矢が立ち、
地域主権改革を担当することになった。

ところが政権交代後から3ヶ月あまりは、
政府内での正式な任命がないため、
担当職員もいない中、水面下での仕事となった。

地域主権改革は政権の一丁目一番地と
標榜していたにも関わらず、
こんな有り様だったのだ。

しかし何とか各方面を調整し、
11月中旬に、地域主権戦略会議の設置を
閣議決定することができた。

私が総理補佐官に就任し、
やっと地域主権改革の工程づくりに
本格的に着手できるようなったのは
12月のことだった。

新政権発足から既に
3ヶ月近くが経過していたが、
それ以降、地域主権改革の
工程表づくりなどに没頭した。

困難な道もあったが、
鳩山総理に実に良い動きをして頂き、
2010年6月には、
何とか閣議決定できる見通しがついた。

ところが政治資金規正法問題などもあり、
新首相は一年ももたずに交代した。

世間の多くの皆さんの鳩山総理に対する評価は、
たぶん芳しくないものだと思うが、
キチンと寄り添って仕事をすれば、
熱心に人の話を聞き、確実な判断をし、
場面場面で指導力を発揮する 良い方だった。

そのおかげで、
地域主権改革の閣議決定準備が進んだのだ。

そんな総理の交代は残念だった。

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次の菅総 理は、人の話をあまり聞かず、
全力疾走の方だった。

政権全体への目配りや
全体最適が最も必要な場面だったが、
そんな状況にはそぐわない登板だったと思う。

何かの勢いをつかむには最適な方だと思う。

菅総理は、地域主権改革を理解せず、
その流れが一気に弱まった。

後に菅総理は、
この改革について思い直すのだが、
当初の勢いが削がれてしまったのは痛かった。

自民党はこうした動きを見逃さなかった。

この頃からの自民党の政府与党への攻撃が
より一層、激しくなる。

昨今の国会の我が党に関し、
提案もしない批判一辺の政党との指摘がある。

野党時代の自民党の所作は、
今の私たちの姿勢を遥かに超越していたと思う。

しかしそんなことは
既に忘却の彼方なのだろう。

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2010年の参院選挙では、
私は解散して衆参ダブル選挙をすべきと
菅総理に提案したが一蹴された。

ダブル選やっていれば、
参院はあれほど負けないし、
衆院の勢力は減ったとしても政権は、
もっと強いものになったと思う。

しかし一度、掴んだ勢力を手放したくないのか、
そんな冒険にチャレンジする雰囲気はなかった。

参院選後の政権運営は、
相当に厳しいものになった。

特に参院予算員会は、
猛獣の檻の中での仕事をしているようで、
私自身も相当に神経が磨り減った。

TBS朝ズバなどの政権への批判も激烈だった。

政権交代後一年近くになると、
何にも行なっていないなどの批判が
毎朝繰り返えされた。

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2010年を何とかやり過ごしたが、
2011年の通常国会も激しいものだった。

一括交付金制度を巡って、
自民党から激しい批判を受けたが、
何とか法案成立のメドが立った。

そんな中で、東日本大震災が発生した。

後になって、
あの時の大混乱を批判する人がいるが、
自民党政権であったとしても、
民主党政権と同様に、
あるいはそれ以上に混乱したと思うが、
その理由は、いずれ書く日がくるかもしれない。

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2011年に夏に向かって、
激しい菅降ろしの声が高まり、
菅総理は再生可能エネルギーの
固定価格買取制度法案の成立を条件にして、
自分の首を差し出した。

菅総理への批判も多いが、
退陣際にこうした取引ができることは、
大いに評価したい。

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次の野田総理は、
自分の信念を通したり、
演説がうまそうな点は評価できるが、
実務面で私はあまり期待をしていなかった。

政策実現の現実味、政治のリアリティが
理解できていなと感じたからだ。

逆に野田首相も私のことを
評価していないとも感じていた。

そんな野田総理のもとで、案の定、私は閑職となった。

しかし野田政権発足後、
3ヶ月で私が総括副幹事長に抜擢された。

この起用を多くの方は、訝しく思ったはずだ。

ここから政権や政党活動の、
危機管理というか、尻拭い役をしつつ、
幹事長室として様々な政策実現の裏方をした。

しかし最大の難点は、消費税だった。

理念がどんなに正しくても、
国民に理解されない政策は実現できないし、
選挙で勝つことはできない。

理念先行型の野田総理などが、
消費増税の決定を押し切り党は分裂した。

民主、自民、公明で合意したその決定は、
政権交代後の今も道半ばだ。
こうした政策実現の難しさを痛感する。

アメリカの顔色を伺いつつ、
脱原発政策も角の丸いものになった。

何とも残念なことだった。

衆院任期が一年程度となった2012年夏頃から、
野党が解散に言及する場面が増えた。

解散をするにしても、戦略のない解散は愚の骨頂だ。

私は、様々な政策課題にメドがつけられる
2013年度の予算編成まで
持ち込んでから解散すべきだと思っていた。

ところが野田総理は、
何の戦略も持たずに、
2012年11月に解散した。

私には、この解散は政権の放り出しに見えた。

国民の皆様に与えて頂いた、政権交代は、
日本の戦後政治にとっても大きなことだったし、
日本の政治の将来に光明となるべきものだった。

だから政権交代が将来に根付くように、
工夫や努力をすべきだと感じていた。

しかし野田総理の党首討論での解散宣言は、
その工夫や努力とは真逆だったと感じている。

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2012年〜現在:

2012年12月、
民進党は下野すると同時に
私も議席を得ることはできなかった。

国民にも政権交代に対する
大きな失望感が広がった。

私は、選挙の翌日から街角に立った。

当時の民主党は、
それまでの党の立ち振る舞いを確実に総括し、
その後の党運営の見通しを立てるべきだと思ったが、
なまじ政権党であったことが足枷となったのか、
あまり切れ味の良い総括はできなかった。

この間に、
安倍総理が特定秘密保護法を成立させ、
武器輸出に道を開いた。

2014年12月の総選挙でも
民主党の党勢回復はならず、
海江田さんから岡田さんにバトンが渡された。

幸い私は議席を奪還することができたが、
国会に戻ってみると、その風景は一変していた。

委員会理事の大多数を与党が占有し、
安保法制などを強行させる結果となった。

安保法制議論の中で、
安倍総理が憲法も立憲主義も
理解していないことが明らかとなった。

2016年秋、蓮舫代表が就任した。

政策議論はともかくとして
党勢回復のために蓮舫さんは悪くないと思った。

鍵は幹事長だと考えていたが、
幹事長に野田さんが就任する。

これでは蓮舫代表の良さが出ないと思ったが、
案の定の結果になった。

2017年は、
年明けから共謀罪議論で沸騰し、
参院では委員会採決もせずに、
共謀罪法強行成立させた。

しかし加計、森友、PKO日報、共謀罪などで、
安倍内閣の支持率が下がり始め
チャンス到来の雰囲気となった。

7月の都議会議員選挙は惨敗し 、野田幹事長が辞任。

だが自民の支持率も下がり続け、
まさに局面が変わる兆しが見えた。

7月25日、両院議員懇談会で
蓮舫代表は続投を表明し、
新規巻き直しの雰囲気があったが、
2日後に辞任表明。

2012年の戦略の無き野田解散同様、
戦略のないあまりにも軽い辞任に唖然とした。

辞任を公言した後では、打つ手はなかった。

そんな中、
ひと月あまりをかけた党員サポーターも投票する
フルセットの代表選挙を行なった。

この間、北朝鮮のミサイル問題もあり、
表面上、安倍政権への批判が弱まりつつあるが、
地域回りをすると本質的に
国民は現状に満足していないように感じられる。

そして昨日の前原代表の誕生だ。

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自民党に変わりうる選択肢となること。

そして再度の政権交代を実現すること。

このために国家のあるべき姿を明確にすべきだが、
そのために挙党一致の強い結束が必要だ。

その鍵を握るのが、
来週にも行われる党の人事だ。

政権時代の反省も踏まえ、
馬力だけに頼らない、
組織全体に目配りのできる
しなやかな組織運営の実現、
そんな人事が実現できるかどうか。

私も色々と知恵を出したいと思うが、
果たしてその思いは届くだろうか。

さあ今日も、確実に前進します。
==  2017.9.2 ==

  
  

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